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2022年9月11日日曜日

母が肺炎になった

精神病院に入院している母が肺炎になったとの連絡があった。

誤嚥性肺炎らしい。

母はもう、耳は全く聞こえず、両足人工股関節で車椅子の状態だ。

時折書く手紙からは、正常と異常の境目を行ったり来たりしている様子が伺える。

認知症と妄想性障害の合わせ技といったところだろうか。

先日、スーパーで買い物をして食材をエコバッグに詰めているところへ電話がかかってきた。

いつもの看護師さんから昨日から熱が39度ほどあり、誤嚥性肺炎と見られる旨の説明の後、

「主治医の〜です。外科的治療を望まれるのであれば転院となりますが、どうされますか?」

急に言われてよく意味がわからなかったが、延命治療をするかどうかということなのだろうと思い、

「そちらの病院でできる限りのことをしていただければそれでよいです」

ということを伝えた。

日頃からなんとなく想像はしていたけど、その決断の時は急に来る。

いつものスーパーの風景と電話の内容がミスマッチで変な感じだった。

「では、今から抗生剤と栄養の点滴を行います」

よろしくお願いしますと言って電話を切った。

胃ろうや中心静脈ポートなどの処置をするのなら転院して手術を受け、そこで寝たきりになるのだろう。

そんなことは母は望まない。きっと。

私ならまっぴらごめんだ。

だから。

これでよかったんだよね。

昨日、入院費用を払いに病院へ行き、看護師さんから様子を聞いた。

コロナなのでもちろん母には会えない。

病棟へ立ち入ることさえできない。

1Fのロビーで話を聞くだけだ。

もう、とろみのついたお茶もむせてしまって飲み込めないらしい。

酸素マスクは5秒も持たずに外そうとしてしまうので、拘束をするためのサインを求められた。

人は必ず歳をとり、高い確率でなんらかの病気になり、痛い思いや辛い思いを少なからずして、そして死ぬ。

それは当たり前のことなんだろう。

でも、なかなか受け入れられないものだね。

あんなに憎んだ母に対してでさえ、こんな気持ちになる。

仲のいい親子ならどんなに辛いだろうか。


母は回復するのだろうか。

また少しでも飲んだり食べたりすることができるようになるのだろうか。

2021年4月19日月曜日

母とコロナ


母が精神病院に入院してから約半年が過ぎた。

桜の季節はあっという間に終わってしまった。

私は今年は結構、桜を見た気がする。

コロナで行く場所が屋外しかなかったからかもね。

母は病院からの手紙に4回も桜のことに触れていた。

「桜が綺麗でしょうね」

「来年は一緒に桜を見たいです」

そして入居する施設を早く決めてくれとせかしてくる。

病院でテレビや新聞で一応コロナの状況は随時把握しているらしい。

それでもなお「コロナのことを言っていたらキリがありません。みんなコロナでも自分の仕事をしているのです。早く施設を探してください。」

などと書いてよこすのだ。

なんだそれ。

キリがないってなんだ。

あなたの絶え間ない訴えがキリがないわ!私だって自分の仕事はしとるわ!

などと憤慨しているのだが、母は無敵なのだ。

前の施設を勝手にとび出した挙句の保護入院なので、次に受け入れてくれる施設は限られている。

要介護認定がないと入れない、一人での外出は禁止、お金は所持できない、部屋に持ち込めるものも限られている(家事防止のため電化製品は制限)、お風呂は部屋にはなく1週間に2回(見守りつき)などと、今までのサービス付き高齢者施設のような自由はなくなった。

1つ見学に行ってみたけど、あそこに入るぐらいならいっそ・・・と思ってしまうぐらいの息苦しさだった。

他人様にお世話になるのだから、わがままは言ってられないのだろう、わかってるけど。

ちょっと絶望してしまったのは事実。

母のことより、自分の行く末を見たような気がして。

老いるって残酷だな。

生老病死って四苦だ、本当に。

母はそんなところしかもう受けてくれないことは知らない。

でも何しろもうこれで5年間で4回目の施設変わりなのだ。

そのたびにいろんな不平不満があり(主に物取られ妄想)引っ越しをしたいと泣き叫ぶ。

最後は取り合わずにいたら勝手に施設を出て、妹の家に押しかけたのだった。

どこへ行っても同じなのに、次こそはと意気込んでいる。

どこへ行っても気に入らない人がいて、その人が部屋に入って来て物を取ると言い出すのに、次はそうならないとなぜ言えるのか、問いただしてもまともに答えてはくれない。

誰々さんさえいなくなればいいと、その時々で思うらしい。

やれやれ。(村上春樹風

前の施設を私たちに解約させることに成功した母は、間髪入れずに次は決まったのかと聞いてくるのだ。

まずは今までのようにはいかない(自由に暮らすことはもうできない)ことを伝えないといけないのだが、病院は面会禁止で話す機会もない。

手紙で書くには情報が膨大すぎて、母が理解できるとは思えないので相談員の方に報告書を渡して伝えてもらうようにお願いした。

が、1週間後手紙がまた来た。

「探してくれているようですね。もう少し早くできませんか。」

え?どゆこと?

いったい何が伝わったのだろう?

もうボケてしまっていてよく理解できないのだろうか、聞いたことを覚えていられないのだろうか?

わからないことだらけだけど、もう全部コロナのせいにすることにした。

「コロナで施設側が受け入れを中止してます。見学も断られました。私にはどうすることもできません。コロナが収束するまで病院にいてください。」

頼まれた洋服と一緒に今日その旨書いた手紙を看護師さんに渡して来た。

読んでくれてるだろうか。

ドキドキ。

コロナ終息するまであと2年ぐらいはかかるかな。

憂鬱なコロナも私たち姉妹にとっては母の入院の時間稼ぎという、少しはメリットがあると思うと前向きな気分になれる。

コロナさまさまだと思おう。

母がこのまま黙って受け入れてくれるとは到底思えないが。

どんな反撃を仕掛けてくるのだろう。

不謹慎なことは承知であえて言うと、早くボケてくれないかなと思っている。

もうそれしか安住の道はない。

母は永遠に何かを訴え続けるのだ。

私たち娘にとっては無理難題を突きつけ続けるのだ。

自分を幸せにしろと。

それが娘のつとめだとでも言うように。

自分が安らかに暮らせる場所を探して彷徨い続けるのだ。

何もわからなくなったら、それなりの場所を探してあげたい。

それまではずっと病院にいてもらうしかないのだ。

多分次にどんな施設に行っても半年もたない。

これ以上、お金も時間も無駄にできない。

もううんざりなんだ。

2020年12月11日金曜日

母の入院から3週間


母の老いが目立ち始めてから、そして介護らしきことが始まってもう5年ぐらいになります。

母に対する感情はその間、大きく揺れ動きました。

同情→心配→苛立ち→焦り→怒り→悲しみ→憐れみ→共感→嫌悪→あきらめ→困惑→恐怖→憎悪→無関心→興味→殺意→嘲笑→絶望…etc

介護を通じて、自分という人間を深く知ることもできました。

今の母に対する気持ちは、もう早く・・・ほしいというものと、病院でできるだけ長生きしてほしいというものが半々です。

携帯電話も持ち帰ったので連絡は手紙ですが、なんだか支離滅裂でよくわからない感じです。

おそらく本人もよくわからないのでしょう。

母のことを書こうとすると、どうもパソコンを打つ手が止まってしまいます。

今日までも何度も書こうとしてはそっ閉じしています。

今日ももうすでにここでちょっと限界。

続きは今度にします。

これからもいろいろありまっせ、きっと。

やれやれ。

2020年11月25日水曜日

母の保護入院から1週間がたちました


母が精神病院に保護入院してからちょうど1週間がたちました。

その間に2回ほど病院へ行き、入院手続きや相談員の方との面談などしました。

役所から限度額認定証も発行され、提出しました。

よくわかんないけど、これでびっくりするほど多額の請求はこないってことかな?

初めての体験ばかりですが、どれもこれもすべてが勉強になります。

経験こそが自分の財産になります、そう思うとすべてのことに感謝ができます。(ような気がする…てへ

母には1度だけ面会しましたが、すごい要求のオンパレードでした。

あれが足りない、これをしておいて、わあわあと。

そして昨日からは手紙のラッシュです。

母はもう耳がほとんど聞こえないのでテレカは使えず、また携帯電話は没収されているのでメールも打てないので、便箋と封筒と切手をおいてきました。

「何か用があったら書いてね」

渡したときは手紙なんか書かないと言っていましたが、昨日から続々と3通も届きました。

内容は、持ってきてほしいもののリストです。

ほとんどの内容がモノについてです。

まあ、すごいです。

剃刀やハンガー、鏡2つ、レッグウォーマー、ベスト、電池、ズボン、リュックサック、カーディガン、その他いろいろ。

剃刀なんて絶対ダメでしょ…精神病院なのに。

そもそも入院時に「持ち物はすべて持ち帰ってください」と言われて持ち帰ったものが、再度リストアップされているし。

とにかくモノに執着する人で、全部のモノが等しく大事で、でももう管理する能力がなくなってきているので、「あれを盗られた、あれがなくなった!」と毎日大騒ぎしていたのです。

病院になんか持って行って「ない、盗られた」と騒げば、病院の職員の方が迷惑するし、それでもその中の一部はあとから持って行って受付で渡してもらえるようにお願いしたのですが「先生から許可がおりたものだけ渡します」と言われ、全て母のもとへは渡ったというわけではないようです。

鏡もアウトっぽいです。

母は、あの何もない病室のベッドで日がな一日「あれがたりない、これもたりない」と考えてリストを作っているのでしょう。

その異常なモノに対する執着こそが病気なのにね。

顔に塗るお気に入りのクリームがリストにあったので、顔がつっぱるのはかわいそうかなと思い、ただそのクリームは高価で母がとても気にいってる商品なので持って行くと執着すると思い、せめてワセリンでもと「あの、ワセリンを送りますので渡してもらえますか?」と電話で聞いたのですが、もはやちょっとクレーマー家族扱いっぽく思われているようで、(母の要求で3度ほど差し入れしようとしたので)「必要なものはこちらから連絡します」とぴしゃっと言われてしまいました。

そう、母の言うことを聞いていると、私たち家族がいつもめんどくさいやつら扱いをされるのです。

ケアマネさんからは「さくらこさんと妹さんはお母さんの言うことを間に受けすぎです。正直がいいとは限りません。そういうのを馬鹿というのです。(馬鹿正直の意味)」とざくっと言われてしまいました。

もう、母の要求はスルーすることにしました。

面会も当分行きません。

火に油を注ぐことになるからです。

そう、母の要求をかなえたり、面会して愚痴を聞いたりすることは、母の執着の燃料となるのです。

わたしたちに会うと、また要求が1つかなうと次!となり、錯乱します。

せっかく入院して、モノがない情報がない生活をして、雑念を払い妄想を止めようとしているのに、燃料をくべたらなんにもなりませんよね。

手紙は妹宛に来ているのですが、今週末には絶対に来るようにということ、手紙が届いているのかとても心配だということなどが、取り乱した様子でなぐり書きされていました。

今週末行かなかったら、自分の置かれた状況をはっきりと理解するでしょう。

「なんで来ないの!娘たちにだまされた!ひどいじゃないの!私を見捨てるのね!」

そして本領発揮しそうです。

この1週間は、入院騒ぎのショックで結構おとなしかったらしく、もともと人前では様子をする性格でもあるので、このまま何事もなかったかのように退院するのかと思うくらいでしたが、やはり本性が出てきたようです。

いや、そうでなければ入院した意味がありません。

ぜひいつもの調子で大暴れして、そこを診ていただいてしっかりと治療していただきたいです。

治療というより、鎮静という感じになるのかもしれませんが。

母は今年80歳です。

父は86歳でなくなりましたが、最後は母とそっくりでした。

いや、母が父とそっくりなのか、とにかく似た者夫婦です。

父も最後は精神病院でなくなりました。

最後の3カ月の乱心ぶりは、今でも親戚じゅうの語り草となっています。

ということは…

まあ、先のことはわかりませんね。

もう、何があっても覚悟はできています。

母はおそらくもう、病院を出て自立した生活をすることはできないでしょう。

さくらこたちはそんな母を影で支えることしかできないけれど、最後まで見届けるのが最後の親孝行です。

とりあえず、今週末を乗り切る。

来週の騒ぎを(多分)、また、報告します。

ではまたね!

2020年11月22日日曜日

母が精神病院に入院しました

 

いつかこうなるとはわかっていました。

というより、こうなることを望んでいました。

以前から心の病気だとはわかっていましたが、本人がどうしても精神病院には行きたらがらずに治療できずにいたのです。

「私は精神病なんかじゃないのに娘たちが精神病院へ閉じ込めようとしている!」

と盛んにケアマネさんやら、かかりつけの先生やらに訴えていたようです。

母の施設の近くに大きな精神病院があり、そこの相談室に母の現状を相談したところ、強制入院の適用になりますと了解はとっていたので、あとは母を診察に連れて行くだけだったのですが、保留になっていました。

でも2年前にお世話になっていた、私がすごく信頼しているケアマネさん(妹が嫌がって担当を変えてもらってしまっていた)に相談したら「放置しておいてください。何を言われても取り合わないでください。そのうち絶対に彼女の方から動き出します。」と言われていたので、そして私もそう思っていたので、辛抱強くその時を待っていました。

そしてついに11月17日の火曜日の夕方5時前、その時がきました。

母が施設を出たのです。

「朝から誰かにツケ狙われています。外に車がとまっています。施設の中でも部屋に入られています。もうここにはいれません。とりあえず今日は次女の家に泊まります。」と施設の方に言い残して。

すぐに施設から電話があったので、私は妹の家に向かうことにして、妹の旦那にすぐに帰ってきてもらうように連絡しました。

妹は6時にならないと帰って来れないので、それまでに母が到着するだろうと思ったからです。

5時半ごろ、妹の旦那に「駅まで迎えに来て」と電話がありました。

彼が母を迎えに行ってくれている間に、私は、夜間救急対応してくれる病院を探して事情を話して、迎え入れてもらう段取りをつけました。

その後、母と会い、しばらくはみんなで母の言い分も聞きました。

病気と認知力の低下はいっそう進んでいるようでしたし、少し取り乱してもいました。

とりあえず病院へ行こう、救急外来で診てもらおうと言うと、

「あそこの(前から話している地元の)精神病院へは絶対に行かないわよ!あそこだったら車から飛び降りるわよ!」

とわめいたので、「あそこではないよ。今日の救急の当番病院はもっと遠いところだよ。」と言うと、案外すんなり納得してくれました。

どうも総合病院だと思っていたようです。

当番病院は車で高速を使って、40分ぐらいかかる遠くの山の上にある病院でした。

母は山が好きなので、そこでなんか心に響いたようです。(そこかい!

私たちは夜の高速道路を車を走らせて、山の上にある精神病院まで母を連れて行きました。

1時間ぐらいかけて先生は母の話を聞いてくれました。

母は、施設で毎日誰かに部屋を荒らされていること、外に出ると車がいつも待ち伏せしてツケ狙われていること、娘(特に私)にも嫌がらせをされたりしていること、夜も眠れず、いつもフラフラして辛いこと、など(他にもいろいろ)を切々と訴えて、自らの狂人ぶりをいかんなく表現してくれました。

その後話を聞き終わった先生は「つらかったですね。今日はここでゆっくり眠りましょう。」と優しくおっしゃいました。

入院なんて絶対拒否するのかと思いきや、先生の誘導により、自分で同意書にサインして病棟に歩いて行ったのでびっくりしました。

プロのお仕事ってすごいですね。

あんなにスムーズに事が運ぶなんて信じられませんでした。

保護入院ということで、保護室という部屋に案内されたのですが、部屋を見て内心びっくりしました。

まるで監獄です。

トイレとベッドしかありません。

廊下側には覗き窓があり、ドアは施錠されて内側からは開きません。

1週間ぐらいは外出時はいつも付き添いが必要らしいです。

着ていた服や持っていたものは全て没収になりました。

今、私の手元にあります。

ああ、精神病院の入院ってこういう事なのですね。

でも、モノと情報に囲まれすぎて、スペックが下がってしまった脳ではもういろいろなことが処理できなくて、苦しんでいた母にとっては安らげる場所でもあったのかもしれません。

処方されたお薬の効果ももちろんあるのでしょう。

翌日の昼間、あらためて妹と入院手続きに行き、恐る恐る様子を見た時の母は、少し呆けた感じでしたが、穏やかになっていました。

さぞかし怒ってるかな、帰るっていうかなと思ったら、今の状況をすっかりと受け入れているようで、次来た時に持って来て欲しいものなどを言ったり、帰りは付き添いの方と閉鎖病棟のドアのところまで来て、私たちに手を振ってくれました。

ああ、これでよかったんだ。

これからどうなっていくのか、なんとなく予測はできています。

しっかりと進んでいくだけです。

どうなったとしても後悔はないです。

ここからの様子は、このブログで書いていこうと思っています。

自分の日記として、また、どなたかの参考になれば嬉しいです。

ではまたね!